デカルトの「方法的懐疑」

昨日、紹介した「水槽の脳」は、近代哲学の祖とされるルネ・デカルトの「方法的懐疑」と同型のものと言われています。

 

デカルトは、「方法的懐疑」という考え方を提唱しました。これは、デカルトによる哲学の革新の出発点であり、確実なものに到達するまでの手段として行われる懐疑です。この世に存在する偏見や謬見、あるいは真実らしく見えているものの不確実であるなど疑う余地が少しでもあるならば、疑う余地があるとして否定していきます。

 

デカルトは、人間の知覚や内的感覚を疑いました。目で見たこと、楽器の音色、植物の色といった、外界についての知覚は、絶対的に確実な認識とは言えない。暑い、寒いといった、身体的感覚でさえ、懐疑の対象としました。

 

夢を見ているとき、自分はどこかの場所でさまよっている、という認識がありますが、実際には存在しない偽りの認識です。夢は覚めなければ、夢だったと、気づくことはできません。人は、目覚めてから、夢の中の出来事は実際には存在しないものだ、と判断を改めます。これは、「夢の懐疑」と呼ばれているものです。

 

デカルトは、外界の知覚も、身体の感覚も、自らの身体の存在すら、疑い尽くしていきます。しかし、デカルトは、絶対に確実な認識として残るものがただ一つあることに気がつきます。それは、このような懐疑を思考している私の存在です。

 

デカルトは、懐疑を徹底して行うということで、「我思う、ゆえに我あり」という哲学の第一原理に到達したのです。

 

−そこで私は真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形体、音、その他一切の外物は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何らの感官も有しないもので、ただ間違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。−(『省察』−ルネ・デカルト著)