神と仏の違い(『神道とは何か』鎌田東二著より)

鎌田東二さんが書いた『神道とは何か』という本を読んでみました。鎌田東二さんは、神職の資格を持つ宗教学者、哲学者です。神道ソングライターもして、コンサートなどをもしているらしい。面白そうな人ですが、詳しくは知りません。

 

この『神道とは何か』の中に、鎌田東二さんが考える、神と仏の違いについて書かれていましたので紹介します。原文通りですが、略している箇所があります。

 

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そもそも神と仏は原理的に全く異なるものであった。この違いを私は三つの指標によって対称的に示してみたい。

 

まず第一に、神は在るもの、仏は成るもの。第二に、神は来るもの、仏は往くもの。第三に、神は立つもの、仏は座るもの。この三つの指標から考えていく。

 

神とは、存在するものの力や偉大さや働きを、驚きと畏敬の念を持って表すときの言葉である。つまり存在そのものの中に神威や神性や神格を見ているのである。それゆえ、神はそこに「在る」のであって、成るものでもまた信仰するものでもない。

 

それは一つの存在論とも言うべき古代人の世界観である。そしてそのような存在論は、私たちの身体感覚や文化の中に今なお深層的に保持されていると思える。

 

それに対して、仏教はきわめて人間的な営みである。仏陀とは「悟った人」という意味である。宇宙の理法、存在の法則、人間世界の苦しみが何によって生起し、どのようにすればそれを解決することができるのか。

 

そのような人間世界救済の方法を見いだし問題解決をはかった者が、「悟った人」としての仏陀であった。仏陀とは悟りを得た人、覚者、智者、賢者である。

 

つまり悟りを得ることによって、人は仏陀に成ることができるのである。成仏という言葉があるように、仏には「成る」のであって、はじめから「在る」ものではない。道を求め真理を尋ね、その法を悟り具現し実践するところに成仏がある。

 

第二の「神は来るもの、仏は往くもの」という違い。「神は来るもの」とは、祭りが本来「待つ」という語源から来ているように、かなたから到来してくる何ものかを待ち受け、それにお供えをするということが本来の神道の姿である。  

 

何ものかが現れ出てくる訪れということが、最初の存在世界の出来事として現れた。その訪れを折口信夫は「まれ人の到来」として理論化した。  

 

それに対して、仏とは仏に成るという成仏、成道の実践である。仏に成るということは、この世の苦しみの海や川を渡って真理の世界つまり悟りの世界に往くことである。つまり世俗の世界から真理の世界へ渡って往くことである。此岸から彼岸へと渡って往くことだ。

 

神はかなたから「やって来る」のに対して、仏はこなたからかなたへ真理世界へと「渡って往く」ことである。魂の世界から「やって来る」神と、真理の世界へ「渡って往く」仏という、この異なる存在が互いに融合していく。

 

第三の、「神は立つもの、仏は座るもの」という違い。折口信夫は、祟りについて、害をなす霊物や悪鬼が様々な災いをなすこととはとらえず、本来それは神霊や聖なるものが立ち現れること、すなわち「立ちあり」が縮約された言葉であるととらえた。祟りとは、神意、神格、神性の立ち現れとしての「立ちあり」をいう言葉であると考えたのだ。  

 

神は古語で一柱、二柱、三柱と呼ばれたように、柱のように立ち、あちらとこちらをつなぐ存在である。諏訪の御柱祭が如実に示しているように、柱を立てるということは、神の示現、立ち現れを表す象徴的行為であった。神は不意にそこに立ち現れ示現する。

 

それに対して、「仏は座るもの」である。ゴータマ・シッダールタが仏陀になったのは菩提樹のもとでの禅定によってである。禅定とは、座禅、結跏を趺坐して座禅を組み、深い精神統一、瞑想状態に入って真理を悟ることをいう。

 

仏になるためには、心を落ちつけ精神を統一し、涅槃寂静という絶対的な静けさのもとで宇宙の理法を静かに観照し、この世の苦悩から抜け出ていかなければならない。そのような座るという身体技法を用いることを通して仏となる。

 

その違いを持つ神仏が日本において習合し、『延喜式』という古代の儀式書の『神名帳』においては三千百三十二座の神社の神が記されているが、そこには一座、二座という「座」という言葉で表されている。これはおそらく仏教の影響であろう。古代の一柱、二柱という呼び方がやがて仏教の影響により、一座、二座という言い方に変化してきたのである。  

 

神もまたそこに鎮座ましまし、座り、常在するものとされてくる。本来神は常在するものでなく、到来するもの。立ち現れるものであり、やがて元いたところに立ち帰っていくものであった。それが鎮座まします存在、そこの山や川や、神殿、神社などそこに常在、常駐するようになると考えられるようになった。それが「座」という呼び方で示されている。