オートマチックな脳の習慣

心配性の人って結構います。例えば、子供が大学受験に落ちたらどうしよう、と心配する。大学に合格すると就職できるだろうか、と心配する。就職すると結婚できるかどうか、と心配する。結婚すると子供ができるか、と心配する。子供ができると無事成長するか、と心配する・・・。

 

このように永遠に心配し続ける人がいます。いつも「心配のタネ」を探している。そして、「心配のタネ」を育てて、大きくしている人までいます。

 

傍目から見ると、わざわざ「心配のタネ」なんて拾わなくてもいいと思います。「心配のタネ」を育てるところまでいくと、理解不能になります。

 

こういう心配ばかりしている人は、心配することが趣味なんだ、心配することが好きなんだ、と思います。趣味の範囲ですから、他人がいろいろ言う必要はありません。

 

同じように、不幸が好きな人もいます。よくわからないけど、いつも不幸な感じがする人がいます。これも、趣味です。

 

どうせ生きるのだったら、幸せに生きた方がいい。幸せに生きるのも趣味です。同じ趣味だったら、人生が楽しくなるようなものを選ぶといいと思います。

 

人間の意思は、自分が本当に考えていることでしょうか。自分で考えていることは少なくて、ほとんどのことは、脳が自動的に条件反射のような感じで考えて判断しているように思います。

 

心配も、脳が勝手にやっていることかもしれません。何か現象が起きた時、脳は、条件反射として、それを幸せだと捉えたり、不幸だと捉えたりしているように思う。どんなことが起きても幸せだ、と脳が感じるプログラムをつくると、いつでも幸せに生きられます。

 

心配になったり、不幸だと思った時には、遠くから第三者の目で、こんな風に自分を眺めてみてもいいかもしれません。

 

脳の中には、私ではない小人がいて、その小人が私の感情を支配している。心配したり、不幸だと思うのは、その小人の仕業であり、私の意思ではない。

 

客観的に自分と俯瞰してみると、自分はどうして、そんな変なこと、つまらないことを考えているのか、と笑ってしまうかもしれません。

 

私たちの脳に生じる感情は、オートマティック(自動的)なものが多いと思います。このオートマチックな脳の習慣を変えると、人生の生き方が変わってくるかもしれません。

幸せメガネ

「〇〇したら幸せになる。幸せになるだろう」と言う人がいます。例えば、「結婚したら幸せになる」「マイホームを手に入れたら幸せになる」「希望の大学に合格できたら幸せになる」・・・。

 

私たちは、「何かを追い求めて、それを手に入れることによって幸福が得られる」「大きな夢をもって、夢を叶えるといい」と教育されてきたように思います。でも、これは本当でしょうか。

 

追い求めたことが手に入っても、幸せになるとは限りません。結婚することによって不幸になった人は山ほどいるし、マイホームを手に入れたらから、希望の大学に合格したからといって幸せになるとは限りません。

 

幸せを未来に求めるのは間違っている。幸せは、遠くにあるのではなく、今ここ、この場所にあると思います。

 

今、幸せと感じられる人は、10年後も20年後も30年後も幸せでしょう。しかし、今、幸せではない人は、自分が手に入れたいことが手に入っても幸せを感じられないかもしれません。

 

起きている現象は、いつもニュートラル(中立)です。それに対して、人は、良いことが起きた、悪いことが起きた、幸せな出来事だ、不幸な出来事だ、と勝手に色を付けている。現象は、自然現象と同じように、良くも悪くもなく、たんたんと起きているだけ。

 

どんな現象でも、見方によっては、良い現象にもなるし、悪い現象にもなるし、幸せな現象にもなるし、不幸な現象にもなる。

 

そうだとたら、何でも幸せに捉えられる「幸せメガネ」をかけてみてはどうでしょうか。どんなことも前向きに幸せと捉えるメガネをかけていると、どんなことが起きても幸せでいられるでしょう。

 

幸せって、いくらでも出てきます。例えば、人間として生を受けていること自体、ものすごい幸せです。何も起きない1日だったら、それも幸せです。私たちは、「幸せの海」の中で生きています。

 

「幸せの海」の中にいると、幸せが当たり前になって実感しにくくなります。カール・ブッセの詩ではないですが、幸せは遠くにあるのではなく、自分の内に常に存在しているものです。

 

自然現象だと思う

地震、台風、豪雨のような自然災害に見舞われることがあります。私は、これまで自然災害によって、どこかへ避難したとか、被災したことはありません。

 

私の実家は、東北の震災で床上1メートルくらいまで浸水し、半壊になりました。実家には住んでいないので、私の持ち物はほとんどありませんでした。

 

しかし、懐かしい物、写真、私の子供の頃の物などが失われました。これらの物は、私の中では忘れさられていたものばかりで、失うことによって動揺などはありませんでした。

 

例えば、地震などの災害が起きて、今住んでいる家が崩壊して津波に流されたら、どう思うでしょうか。その時になってみないとわかりませんが、そういうことが起きたら、きっぱりと失ったものに未練を残さないと思います。自然災害で失ったものは返って来ないし、自然災害を恨んでも意味がありません。

 

今、畑で野菜を育てていますが、毎年、動物に食べられたり、荒らされます。今年から、いろいろ対策をしているのですが、それでもなお、動物たちが我が物顔で畑に来て、いろいろなものを食べていきます。もう少しで収穫という時に、食べられることも多くあります。

 

そういう時は、仕方がないなあ、と思います。動物を憎んだり、恨んだりすることはありません。

 

自然災害が起きたり動物から被害を受けた時、自然災害や動物を憎んだり恨んだりしません。私と同じように考えている人も多いと思います。

 

しかし、対人間だとどうでしょうか。他の人から、迷惑をかけられたり、心にダメージを受けたり、金銭的な損失を被ったりしたら、どう思いますか。その相手に対して、恨んだり憎んだり、絶対に許さない、・・・という感情を持つ人が多いと思います。

 

なぜ、対人間だと、このような感情を持つのでしょうか。自然現象が起きたり動物から迷惑をかけられた時には感情が動じないのに、他の人から迷惑をかけられると感情が動じてしまう。

 

よく考えれば、他人は、自然の中の一つの存在です。イノシシやシカなどの動物と同じようなものです。

 

他の人から迷惑を被ったら、イノシシやシカが悪戯したようなものだ、と思う。上司から文句を言われたら、台風のような自然現象の一つだと思う。すべてを自然現象だと思えることができれば、人生に苦しみ、悩みなどは生じないでしょう。

情熱は内に

若いうちは、ある程度頑張った方がいいかもしれない。しかし、40歳とか50歳になったら、頑張るのは止めていいと思う。

 

何かを成し遂げようと思ったら、年齢に関係なく、情熱が必要な場合があります。しかし、「情熱」と「頑張る」は違うと思う。「情熱」の方が、素のひたむきさが感じられます。「情熱」「熱さ」を持っている人は、人生の充足感があるのかもしれません。

 

しかし、「情熱」「熱さ」は、必要がないのかもしれない、と思う。情熱的に生きている本人は、それで満足かもしれないが、周りに迷惑をかけている人もいそうです。

 

情熱を持ってもいいけど、情熱を外に出すのではなく、他の人には見せず、内に秘めるといいと思う。情熱でギラギラしている人は、あまり好きでない。

 

情熱的な人は、意外と長続きしないことが多いような気がする。ものすごく情熱的な人の話は、話半分くらいに聞くといいかもしれません。

 

例えば、「すごい人と知り合った。一生、この人に絶対についていきます」と言う人は、長続きしないことが多い。何も話さず、もくもく人の話を聞いている人の方が長続きしたりする。

 

私も、このブログも含めて、情熱的にはしないようにしています。なんでも「たんたん」と続けてみる。「たんたん」と続けることは面白味がないが、こちらの方が「深み」はあると思う。このブログも、「たんたん」と情熱をこめずに続けていくつもりです。

 

神と仏の違い(『神道とは何か』鎌田東二著より)

鎌田東二さんが書いた『神道とは何か』という本を読んでみました。鎌田東二さんは、神職の資格を持つ宗教学者、哲学者です。神道ソングライターもして、コンサートなどをもしているらしい。面白そうな人ですが、詳しくは知りません。

 

この『神道とは何か』の中に、鎌田東二さんが考える、神と仏の違いについて書かれていましたので紹介します。原文通りですが、略している箇所があります。

 

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そもそも神と仏は原理的に全く異なるものであった。この違いを私は三つの指標によって対称的に示してみたい。

 

まず第一に、神は在るもの、仏は成るもの。第二に、神は来るもの、仏は往くもの。第三に、神は立つもの、仏は座るもの。この三つの指標から考えていく。

 

神とは、存在するものの力や偉大さや働きを、驚きと畏敬の念を持って表すときの言葉である。つまり存在そのものの中に神威や神性や神格を見ているのである。それゆえ、神はそこに「在る」のであって、成るものでもまた信仰するものでもない。

 

それは一つの存在論とも言うべき古代人の世界観である。そしてそのような存在論は、私たちの身体感覚や文化の中に今なお深層的に保持されていると思える。

 

それに対して、仏教はきわめて人間的な営みである。仏陀とは「悟った人」という意味である。宇宙の理法、存在の法則、人間世界の苦しみが何によって生起し、どのようにすればそれを解決することができるのか。

 

そのような人間世界救済の方法を見いだし問題解決をはかった者が、「悟った人」としての仏陀であった。仏陀とは悟りを得た人、覚者、智者、賢者である。

 

つまり悟りを得ることによって、人は仏陀に成ることができるのである。成仏という言葉があるように、仏には「成る」のであって、はじめから「在る」ものではない。道を求め真理を尋ね、その法を悟り具現し実践するところに成仏がある。

 

第二の「神は来るもの、仏は往くもの」という違い。「神は来るもの」とは、祭りが本来「待つ」という語源から来ているように、かなたから到来してくる何ものかを待ち受け、それにお供えをするということが本来の神道の姿である。  

 

何ものかが現れ出てくる訪れということが、最初の存在世界の出来事として現れた。その訪れを折口信夫は「まれ人の到来」として理論化した。  

 

それに対して、仏とは仏に成るという成仏、成道の実践である。仏に成るということは、この世の苦しみの海や川を渡って真理の世界つまり悟りの世界に往くことである。つまり世俗の世界から真理の世界へ渡って往くことである。此岸から彼岸へと渡って往くことだ。

 

神はかなたから「やって来る」のに対して、仏はこなたからかなたへ真理世界へと「渡って往く」ことである。魂の世界から「やって来る」神と、真理の世界へ「渡って往く」仏という、この異なる存在が互いに融合していく。

 

第三の、「神は立つもの、仏は座るもの」という違い。折口信夫は、祟りについて、害をなす霊物や悪鬼が様々な災いをなすこととはとらえず、本来それは神霊や聖なるものが立ち現れること、すなわち「立ちあり」が縮約された言葉であるととらえた。祟りとは、神意、神格、神性の立ち現れとしての「立ちあり」をいう言葉であると考えたのだ。  

 

神は古語で一柱、二柱、三柱と呼ばれたように、柱のように立ち、あちらとこちらをつなぐ存在である。諏訪の御柱祭が如実に示しているように、柱を立てるということは、神の示現、立ち現れを表す象徴的行為であった。神は不意にそこに立ち現れ示現する。

 

それに対して、「仏は座るもの」である。ゴータマ・シッダールタが仏陀になったのは菩提樹のもとでの禅定によってである。禅定とは、座禅、結跏を趺坐して座禅を組み、深い精神統一、瞑想状態に入って真理を悟ることをいう。

 

仏になるためには、心を落ちつけ精神を統一し、涅槃寂静という絶対的な静けさのもとで宇宙の理法を静かに観照し、この世の苦悩から抜け出ていかなければならない。そのような座るという身体技法を用いることを通して仏となる。

 

その違いを持つ神仏が日本において習合し、『延喜式』という古代の儀式書の『神名帳』においては三千百三十二座の神社の神が記されているが、そこには一座、二座という「座」という言葉で表されている。これはおそらく仏教の影響であろう。古代の一柱、二柱という呼び方がやがて仏教の影響により、一座、二座という言い方に変化してきたのである。  

 

神もまたそこに鎮座ましまし、座り、常在するものとされてくる。本来神は常在するものでなく、到来するもの。立ち現れるものであり、やがて元いたところに立ち帰っていくものであった。それが鎮座まします存在、そこの山や川や、神殿、神社などそこに常在、常駐するようになると考えられるようになった。それが「座」という呼び方で示されている。