デカルトの「方法的懐疑」

昨日、紹介した「水槽の脳」は、近代哲学の祖とされるルネ・デカルトの「方法的懐疑」と同型のものと言われています。

 

デカルトは、「方法的懐疑」という考え方を提唱しました。これは、デカルトによる哲学の革新の出発点であり、確実なものに到達するまでの手段として行われる懐疑です。この世に存在する偏見や謬見、あるいは真実らしく見えているものの不確実であるなど疑う余地が少しでもあるならば、疑う余地があるとして否定していきます。

 

デカルトは、人間の知覚や内的感覚を疑いました。目で見たこと、楽器の音色、植物の色といった、外界についての知覚は、絶対的に確実な認識とは言えない。暑い、寒いといった、身体的感覚でさえ、懐疑の対象としました。

 

夢を見ているとき、自分はどこかの場所でさまよっている、という認識がありますが、実際には存在しない偽りの認識です。夢は覚めなければ、夢だったと、気づくことはできません。人は、目覚めてから、夢の中の出来事は実際には存在しないものだ、と判断を改めます。これは、「夢の懐疑」と呼ばれているものです。

 

デカルトは、外界の知覚も、身体の感覚も、自らの身体の存在すら、疑い尽くしていきます。しかし、デカルトは、絶対に確実な認識として残るものがただ一つあることに気がつきます。それは、このような懐疑を思考している私の存在です。

 

デカルトは、懐疑を徹底して行うということで、「我思う、ゆえに我あり」という哲学の第一原理に到達したのです。

 

−そこで私は真理の源泉たる最善の神ではなく、或る悪意のある、同時にこの上なく有力で老獪な霊が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと仮定しよう。そして天、空気、地、色、形体、音、その他一切の外物は、この霊が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考えよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何らの感官も有しないもので、ただ間違って私はこのすべてを有すると思っているものと見よう。−(『省察』−ルネ・デカルト著)

水槽の脳

1999年に公開された『マトリックス』という映画があります。「Matrix」は、ラテン語の「母」を意味するmaterから派生した語で、転じて「母体」「基盤」「基質」「そこから何かを生み出す背景」などの概念を表します。この映画では、コンピュータの作り出した仮想現実を「MATRIX」(マトリックス)と呼んでいます。

 

『マトリックス』の粗筋をWikipediaをもとにして、編集してみました。

 

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トーマス・アンダーソンは、大手ソフトウェア会社に勤めるプログラマである。トーマスには、コンピュータ犯罪を起こす天才ハッカー「ネオ」という、もう1つの顔があった。トーマスは、ここ最近、起きているのに夢を見ているような感覚に悩まされ「今、生きているこの世界は、もしかしたら夢なのではないか」という、漠然とした違和感を抱いていた。

 

トリニティと名乗る謎の女性と出会ったトーマスは、トリニティの仲間のモーフィアスを紹介され「貴方が生きているこの世界は、コンピュータによって作られた仮想現実だ」と告げられ、このまま仮想現実で生きるか、現実の世界で目覚めるかの選択を迫られる。

 

日常の違和感に悩まされていたトーマスは、現実の世界で目覚める事を選択する。次の瞬間、トーマスは自分が培養槽のようなカプセルの中に閉じ込められ、身動きもできない状態であることに気付く。

 

トリニティ達の言ったことは真実で、現実の世界はコンピュータの反乱によって人間社会が崩壊し、人間の大部分はコンピュータの動力源として培養されていた。覚醒してしまったトーマスは、不良品として廃棄されるが、待ち構えていたトリニティとモーフィアスに救われた。

 

トーマスは、モーフィアスが船長を務める工作船「ネブカドネザル号」の仲間として迎えられた。モーフィアスは、「ネオ」(トーマス)こそがコンピュータの支配を打ち破る救世主であると信じ、仮想空間での身体の使い方や、拳法などの戦闘技術を習得させた。人類の抵抗軍の一員となった「ネオ」(トーマス)は、仮想空間と現実を行き来しながら、人類をコンピュータの支配から解放する戦いに身を投じる事になった。

 

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『マトリックス』の映画の元になったと言われている「水槽の脳」という思考実験があります。「水槽の脳」について、Wikipediaを参考にまとめてみました。

 

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「水槽の脳」とは、「あなたが体験しているこの世界は、実は水槽に浮かんだ脳が見ているバーチャルリアリティなのではないか」という仮説。

 

哲学の世界で多用される懐疑主義的な思考実験で、1982年に哲学者ヒラリー・パトナムによって定式化された。正しい知識とは何か、意識とはいったい何なのか、といった問題、そして言葉の意味や事物の実在性といった問題を議論する際に使用される。

 

科学者が人から脳を取り出し、脳が死なないような特殊な成分の培養液で満たした水槽に入れる。そして、脳の神経細胞を、電極を通して脳波を操作できる非常に高性能なコンピュータにつなぐ。

 

意識は脳の活動によって生じるから、水槽の脳はコンピュータの操作で通常の人と同じような意識が生じよう。脳は、コンピュータからの電気信号を受け取っても、現実世界のように感じるかもしれません。実は、現実に存在すると思っている世界は、このような水槽の中の脳が見ている幻覚ではなかろうか?

 

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最近は、「バーチャルリアリティ(仮想現実)」という言葉を聞くことが多くなりました。私たちの脳が感じていることは、本当に現実なのか、仮想なのか、わからない。「水槽の脳」のように、私たちが現実に存在していると思っている世界は、脳が見ている幻覚かもしれません。

 

プラトンの『洞窟の比喩』

哲学者プラトンは、『国家』第7巻で、「洞窟の比喩」という話を記述しています。これは、イデア論を説明するために、プラトンが考えた比喩です。深い話だと感じたので紹介します。

 

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地下にある洞窟の中に囚人が住んでいます。彼らは子供の時から手足も首も縛りつけられているため、ずっと目の前にある壁だけを見て生活しています。

 

彼らの後上方はるかのところに、火がともっていますが、囚人たちは背後を向くことができないので、見ることができません。

 

囚人と火の間の通路には、低い衝立が置かれており、その上から操り人形を出して見せると、ちょうど火に照らされた操り人形の影や、そこを通り過ぎる物などが、囚人の見ている壁に投影されます。

 

このすぎゆく影のみをずっと見ながら生活しているうちに、囚人は、影こそが真実であると認め、その影の動きを鋭く観察し、次の動きを推測するようなことをやり始め、それを誰よりも上手くできた囚人には名誉や賞賛が与えられるようになります。

 

あるとき、囚人のひとりが縄をほどかれ、背後にある火の光を仰ぎ見るように強制されます。

 

これまで影ばかり見ていたその囚人は、光に目がくらんでよく見えないばかりか、苦痛を覚えます。そのため、やはり向きかえり、自分にとってよく見えやすい影をまた見ようとします。

 

ここで、ある誰かがその囚人を無理やり洞窟の急な荒い道を引っ張って行って、火のさらに向こうにある出口、太陽のある世界に連れていきます。すると、当然ながら囚人はまぶしさのあまり、最初のうちは何も見ることができなくなります。

 

そこで、囚人はまずは水面にうつる太陽の光を見て、次に夜の星を見るというように、目を明るさに慣れさせていき、最終的には、太陽そのものを見ることに成功します。

 

囚人は、その太陽の光を知ってから、今まで自らが見ていたものがただの影であったことや、その地下の影ですらも、太陽がなんらかの仕方で原因となって発生していたことを悟ります。

 

囚人はこの体験を非常に幸福に思うと同時に、洞窟にいる他の囚人たちに憐れみの情がわいてきます。そこで、その囚人は、また洞窟に戻り、自らの体験を伝えようと試みます。

 

しかし、光に目が慣れてしまったために、今度は影をうまくみることができないという事態が発生します。

 

そのため、他の囚人は、「あいつは、上で光を見たせいで、すっかり目をだめにしてしまった」とその囚人を笑いものにします。そして、囚人たちは、自分達を無理やり上に連れて行こうとする者がいるならば、殺してでも阻止しようとするようになります。

 

光を見た囚人にしてみれば、そのような洞窟にいるくらいなら、太陽のもとで光を受けながら生活したほうがよほど幸せにみえます。

 

しかし、それでも彼は、洞窟に入り、また彼らと同じような影を見る生活を送りながら、それらの囚人を真実の幸福に導くために行動しなければならないのです。

 

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プラトンは、現象界(現実世界)とイデア界(真理の世界、存在の真実の世界)を、洞窟の中とその外の世界に例えました。

 

洞窟に住む縛られた人々が見ているのは、「実体の影」であるのに、それを「実体」だと思い込んでいる。人々は、洞窟の壁に映る影絵を本物だと思い込み、外にあるイデア界の存在を知らない。

 

この比喩を通してプラトンが伝えたかったのは、イデア界の存在です。最初にイデア界(真理の太陽)の世界があって、それがさまざまに具現しているのが現実界(影絵)だ、と言っているのです。

 

「美」というイデアを例にすると、現実界では「野に咲く花の美しさ」のように、様々な形で「美」が現れています。しかし、花が美しいのは、それ自体が美しいからではなく、それら全てのもとである「美」そのものが存在するからです。「美」そのものがある場所が、イデア界です。

 

壁面に映る影絵の世界だけに魂を捕らえられている洞窟の囚人と同じように、私たちが現実だと思って見ていることは、本当は「影絵」であるのかもしれません。

文章を味わう

最近、1日に1冊か2冊本を読みます。1冊を読むのにかかる時間は、1時間〜5時間くらい、平均すると3〜4時間くらいです。急いで読むこともありますが、ゆっくり読むことが多くなりました。

 

速読で本を読む人も多くいるようです。速読で得られるものもあるし、速読では得られないものもあるような気がします。

 

本を読むことによって、何らかの知識を得ることができます。しかし、本を読む目的は、知識を得るだけではないと思います。

 

著者が言わんとすることは、文章にのみ書かれているわけではありません。文章にしたくても文章にできない言葉だってあるはずです。行間でしか感じられない美しさもあると思う。

 

こういうニュアンス、余白のようなものを感じ取れる読書をしたい。絵画を見るように、音楽を聴くように、文章も味わうものです。文章も芸術作品と呼んでいい。

 

いろいろな本を読みますが、書かれている内容自体は大したことがないけど、良い文章だな、と感じる時があります。執筆する人は、知識的なことだけでなく、文章の質についても考えた方がいいと思います。

 

最近では、著者が書いた本ではなく、編集者がまとめた本の方が多いような気がします。そして、同じような内容で、どんどん本を出す人もいます。こういう作り方だと、文章に味わいがなく、文章の美しさを感じさせる本は少ない気がします。

 

文章の余白、無駄、非効率と思えるような言い回しの中に、美しさが秘められていることがあります。もっと行間に意識を向けてみようと思う。

 

文章の内容も大切ですが、読んでいて心地が良くなる、美しい文章を書いてみたい。文章の内容よりも、こちらの方が大切な気がしています。


 

ゆっくり流れる時間を味わう

『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄著)という有名な書籍があります。この書籍では、動物のサイズが違うと機敏さが違い、寿命が違い、総じて時間の流れる速さが違ってくる、という話が書かれています。ゾウもネズミも、一生の間に心臓が鼓動するのは、20億回だそうです。

 

私は、森に囲まれたところで田舎暮らしをしています。ときどき東京へ帰りますが、東京へ帰ると、心が忙しなくなります。刺激が強いせいか、いつもよりも夜更かししてしまいます。

 

東京は、人も多いし、刺激も多い。沢山のイベント、面白いスポットもあって、退屈しません。

 

田舎暮らしだと、出かけるところは限られているし、イベントもほとんどない。退屈と言えば退屈です。

 

都会に住んでいる人は、ネズミのような生き方をしていて、田舎暮らしをしている人はゾウのような生き方をしているのかもしれません。

 

都会に流れている時間と田舎に流れている時間は、全然別物のような気がします。同じ日本に住んでいても、流れている時間軸は、それぞれの人によって違うのでしょう。

 

何でもテキパキと早くする人がいますが、一方では何でもゆっくりとしかしない人もいます。テキパキとする人の方が優秀と捉えられていますが、本当は、どちらが優秀なのか、比べることはできないと思います。

 

旅をする時は、飛行機や新幹線を使いますが、鈍行列車のような、ゆっくりとした旅もいいかもしれません。前は、より多くの観光地を巡ろうと思っていましたが、最近は、ゆっくりした旅をすることが多くなりました。観光地を次々と巡って行く観光ツアーも楽しいですが、1日に1箇所か2箇所をゆっくり巡る旅もいいものです。

 

今の時代は、何でも速い方がいい、効率的な方がいい、と思われていますが、ゆっくりとした非効率の中にも、得るものが充分にあると思います。

 

収入は多ければ多いほどいい、他の人よりも効率的に仕事をした方がいい、成績は上位になった方がいい、ライバルに負けないように頑張った方がいい、本は速く読んだ方がいい、・・・今はこういう競争のような社会になっています。

 

このような競争社会で生きる方法もありますが、このような仕組みから離脱する方法もあります。離脱するには、これまでの価値観を手放さないといけないこともあるでしょう。

 

競争社会から離脱して、ゆっくりした時間を楽しむ生き方もあります。こちらの方が豊かな生き方であり、より人間らしい。都会で生活しても、競争社会から離脱して生きることもできます。人間は、競争する生き物ではなく、共存する生き物だと思います。

 

何でも速くしようとしたり、忙しくしていると、時間を味わう暇がない。川のせせらぎ、鳥の囀り、風の音、自然が奏でる音を聞きながら、ゆっくり流れる時間を味わっています。