山本玄峰さん

先日、沼津市の古刹で行われた掛け軸や書の虫干し(見学会)へ行ってきました。この古刹には、何度か行ったことがありますが、今回は、掛け軸や書に関しての説明会が開かれました。

 

掛け軸や書を見ながら、説明を聞いていたのですが、私の目の前にある書が、下手くそな気がするのです。書に関しては素人で、鑑識眼はないのですが、ずっと見ていても、下手な気がする。(笑)こんな下手な書をなぜ大事に保存し、有名な人が描いた掛け軸や書と並んで掛けているのか、とても不思議でした。

 

順番に、掛け軸や書の説明が行われましたが、ついに、私の目の前にある下手な書(笑)の順番になりました。そうしたところ、この書は、山本玄峰さんが書かれたものでした。

 

山本玄峰さんは、和歌山県本宮町生まれの禅僧。20歳ころ、目を患ってほとんど失明し、弟に家督を譲って四国八十八箇所の霊場巡りを素足で行いました。7回目の遍路の途上で、雪渓寺の門前で行き倒れたところを、助けられます。そして、寺男として働きはじめ、その後、修行をし、雪蹊寺の住職になりました。

 

そして、全国を回って修行を続け、白隠慧鶴の古刹を再興しました。諸外国を訪問したあと、臨済宗妙心寺派の管長となり、後に三島市・龍沢寺の住職になります。

 

終戦の詔勅(しょうちょく)にある「時運の赴くところ、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言したり、終戦を勧めたり、象徴天皇制を発案したり、鈴木貫太郎首相の相談役などを務めました。吉田茂首相、池田勇人首相も助言を求めに来ていました。

 

山本玄峰さんの姿を見た剣の達人は、「あの人は斬れない。衣と体がひとつになっている。ああいう人は斬れない」と周囲に洩らしたという話があります。(Wikipediaをなど参照して、まとめました。)

 

私の目の前にあった書は、山本玄峰さんが、ほとんど目が見えない状態で書いたものでした。こういう話を聞いた後は、目の前にある書が素晴らしく感じられました。

 

人間の価値観は、何かのきっかけでひっくり返ることがあります。私が感じている価値観は、私が知っている範囲内であり、とても狭いものかもしれません。物事を表面的なことで判断してはいけないと感じた瞬間でした。